À paradis

ラマダン中、なぜラマダンをするのかについて友人と話している内に宗教の話になった。


私「ラマダンは自分のためにするの?それとも神様のためにするの?」

友人「ラマダンをすると、自分がしてきた罪を許してもらえたり、
    願いを聞き入れてもらえたりするんだ。たとえば人を殺してしまっても、ラマダンをすればゆるして・・・」

私「もらえないでしょ」

友人「笑・・・でも罪を犯したまま死ぬと天国に行けない。天国は信じてるでしょう?」

私「いや、信じてないよ」

友人「なぜ?死者をみたことある?」

私「うーん、ある」

友人「それは死体を見たのであって、死者は誰にも見ることができないんだ。
    たとえば稲を刈るというのは殺してるようなものなんだけど、米を植えたらまた生えてくるでしょう」

私「いや、種だし、生えるし」

友人「でしょう(強引に)。人間の魂も死んだら違う生を授かるんだ」

私「違う生を授かったら前のことは覚えてないからどうでもいいんじゃない?」

友人「たしかに・・・でも存在しないものに名前はないよ。天国は存在するから名前があるんだ」

私「そうかなー『ゼロ』とか『無』みたいなもんじゃないの?」

友人「ほらね(誤解)。存在するから名前があるんだ」

私「(まいっか。) 天国はどんなところ?」

友人「天国はすべての良いものが集まってて、地獄にはすべての悪いものが集まってるんだ」

私「たとえば?何があってほしい?」

友人「暑すぎず、寒すぎず、すべてのおいしいものがあって・・・
    スパゲティ、オイルサーディン(彼の好物らしい)・・・」

私「じゃあこの部屋クーラー効いてるし、天国に遠くないんだ(笑)」

友人「スパゲティとオイルサーディンがあればね!」

私「天国には動物がいる?」

友人「動物は深く考えないし、本能で生きてるから、罪を犯したとしてもみんな天国にいくんだ」

私「じゃあにょっきにも逢えるんだ」(にょっきはブルキナで飼っていた犬。突然死んでしまった。)

友人「まだ忘れてないのか。とにかく僕たちもみんなまた天国で逢えるよ」


これまで私は、死んだら終わりで魂なんてない、天国も地獄も関係ない、と思ってきた。


飼っていた犬や猫との別れくらいしか経験していないからこんなのんきな死生観なのかもしれないけど、
彼らにまた会えるとしたらすごく嬉しいし、もう一生会えないかもしれないブルキナ人や亡くなった人とも
「さようなら」じゃなくて「またね」でお別れできるならそんなに悲しくないのかな、そうでもないかな。


「じゃあ、また天国で。その前にも会えるといいね。」
この友人とはそう言って笑ってお別れできそうな気がする。