震災ボランティア

7月7日から15日、岩手県へ行ってきた。
震災から4カ月が過ぎようとする被災地、
1週間のボランティアを通じていろいろなことが経験できた。


<ボランティア0日目 岩手県遠野市>
朝9時に新宿を出発し、17時半頃岩手県遠野市に到着した。
豊かな自然、虫が多く、日本の美しい田舎、というかんじ。


夜、公民館の座敷にざぶとんを敷き、毛布、シュラフにくるまって寝る。
寝息、ふとんの擦れる音の他は
雨が地面に当たるパラパラという音、どこかに溜まった雨水が落ちるトトトという音、ときおり梁か何かがきしむ音が聴こえる。
闇が深く、シンとして氷の中の水のような圧迫感がある。


寝ていると、夜中に地震があった。
震度2、寝ていたせいか強く感じた。
ほぼ毎晩、小さな地震があるらしい。
明日からちゃんと働けるか不安だけれど、精一杯がんばりたい。


<1日目 陸前高田>
陸前高田に近づくにつれ、テレビで見たような瓦礫の山、
家の土台、崩れたままの道路、曲がったガードレールが窓の外に広がる。
隣の人が「蝿が栄養をとりすぎて飛べないやつがいるんだって」とつぶやく。
何度もテレビで見たあの松を通り過ぎ、
ほんの一瞬、一分行くか行かないか、景色が変わる。
「普通」の家があり、車が停まっていて、
洗濯物が干してある。
こんな少しの距離の差で、と驚く。


また少し行くと瓦礫が広がっていて、
そこがその日の作業場所だった。


車がぞうきんのようにねじられ転がっている
耕した土の中からお茶碗の破片、まんがの切れはしが見つかる
山に囲まれた土地に船があり、たくさんのカモメがいて、
魚の腐った臭いがする。
何か変で、いやだ。
土の上に小さなカエルを見つけると少しうれしい。


車を降りると異臭が鼻をつく。
想像よりはひどくなかったが、
生臭いような、ヘドロのような
いろいろなもののまざった臭い。


老夫婦とすれ違うとおじいさんがニコニコしながら
「よろしく頼みます、うちの畑もよくなるといいけど」
というようなことを岩手弁で言っていた。


午前中は少しだけ雨が降ったあと、ほとんど日が照っていなかったが
蒸し暑く、雨避けのウインドブレーカーを着ていられない。
マスクの中やTシャツの中を汗が流れ、目にも入ってくる。
暑い、暑いと言いながらもブルキナを思い出して少しなつかしい。
ブルキナではこんなに涼しい風は吹いていなかった。


作業は40人ほどで耕したあとの畑に残った木片や雑草を集める。
その後場所を移動したところはまだほぼ手付かずで、
プランターの破片、ニットのセーター、学生靴、レンゲなど
比較的大きな、生活の残り香のあるものがあった。
一掘りごとにガラス片が出てきたからどんどん掘り進むと、
リップクリームのようなものがちらっと見えたから
もう少し掘ると何かの幼虫で、驚いてまた埋めておいた。


午後は日が少し強くなった。
畑に一列になってひまわりの種を植えていった。
しゃがんで、3箇所植えて立ち上がる。
それだけでも長時間すると軽く立ちくらみがする。
ひまわりの種を一面に植え、水をやって今日の作業は終わった。
正面の畑はまだ耕す前で大き目の瓦礫も残っている。
向こうの田んぼはきれいに稲が植わっている。
一つの畑を畑にするには大変な労力だ。


たくさんの瓦礫が山積みになっていて、
たくさんのことをしなくてはいけなくて、
大きな山から一粒ずつ砂を取り除いているような、
気の遠くなるような話だけれど、
一粒とはいえ自分の手で減らせる。


鍬で土を一かきする
雑草を一本抜く
種を一粒植える
汗が一筋流れる
おつかれさま、と一声かける
畑が一つできる


小さな小さな1を重ねることで
大きなひとつの力になる
そういうことがうれしいと感じる体験だった


<2日目 箱崎の写真>
昨日は立ったりしゃがんだりで足腰がすごく疲れたから、
今日は比較的楽だという写真班へ行ってみた。


写真班は泥だらけになってしまった写真を洗浄してスキャンし、
修復をして持ち主を探すことを目指しており、
私は洗浄を手伝った。


ところで今日はロサンゼルスから来た人と一緒だった。
昨日は外国人のグループの人と話をして、ある人はアメリカから、
ある人は南アフリカ、というようにあちこちから来ているようだった。
誰かが外国で「あなたが住んでいるのは福島より北か南か」と聞かれたというし、
(東京ではなく福島基準になってしまった。)
この辺りはものすごく国際化が進んでいる。


写真の多くは泥水に浸かったため色が流れ落ちていたり砂が付着している。
アルバムに入っているものは水に浸して慎重に写真だけをはがし、筆で砂を落とすが、
インクジェットのものや古いものは水がつくとそれだけで色が取れてしまう。


印象に残った写真が2枚あった。
1枚は白黒の古い写真で、バッターボックスでバットを構えている少年の写真。
写真がとても貴重だっただろうに、我が子の勇姿を収める親心が感じられて温かい。


もう1枚も古い写真で、とても年季の入ったアルバムだった。
震災のせいではなく以前からカビが生えていたみたいで、
着物を着た女性の頭と首、男性の輪郭がうっすらと見えるだけで
あとは一面カビと泥に覆われていた。
なんとなく結婚式に見えたからできるだけきれいにしたいと思った。


こういう古い写真は水を含んだ筆で一撫でするだけで色がぼろっと剥げてしまいがちだから
迷ったけどおそるおそる擦ってみると、カビだけが流れ落ち、赤色が出てきた。
汚れを落としていくと男性の顔、その両サイドに老夫婦の顔が出てきて、
寿の文字も読めるようになった。


こうしてきれいにした写真は持ち主を探すことがまたものすごく難しい。
どうしたらいいかわからないけど
一人でも多くの人が大切な写真と再会できることを願う。


<3日目 陸前高田市気仙町>
今日は瓦礫の撤去のために陸前高田へ。1日目と同じ場所。
朝から暑く、35度くらいいってるそうだった。


気仙町のかみおさめという地区は60軒ほどあった家屋の内
40軒ほどが流されたところで、まだ行方不明者もいる。
おとといと比べて、ここの側溝がきれいになっているとか、
瓦礫があちこちにあった空き地のような場所がきちんと掘り起こされきれいになっているとか、日々復興が進んでいる。


午前中、作業を始めて1時間も経たない内に地面が揺れた。
震源地は三陸沖で震度4、マグニチュード7以上の比較的大きな地震だったそうだが
気仙町はほとんど揺れず、気づかない人もいたくらいだった。


周りを山に囲まれ、そんな大きな地震じゃなかったし大丈夫だろうと思ってしまう。
隊長が「念のため避難しましょう」と言い、みんなで近くの山へ行った。
この一言が大事なんだと思った。
その後、サイレンが鳴り響き、津波注意報が発令されて住民は避難とのことだった。


サイレンの音は物々しく、放送は何を言っているか聞き取るのが難しいから不安な気持ちになる。
警報が解除されるまで2時間弱、山で待機した。
結局10センチから20センチの波が到達した。


午後は比較的大きな瓦礫の片付けをしたが、
あまりにも暑いので早めに終わった。


<4日目 陸前高田市気仙町>
前日、あまり作業が進まなかったから今日も同じところへ行った。
今日は日射しが強かったけど気持ちのいい風が吹き、
気温は30度くらいだった。
瓦礫を片付けたり、石灰をまいたり、EM菌を巻くなどの作業をした。
大きな板や電線、本などいろいろなものが出てきた。


14時46分、全員で黙祷を捧げた。
震災から4ヶ月、被災地の1ヶ月は11日始まりのままだ。
復興の1ヶ月がまた始まる。


<5日目 大槌町金沢小学校>
昨日の夜は、お世話になっている公民館の近くで小さなお祭りがあって
区長さんとか老人会の会長さんとか地元の人が30〜40人くらい集まった。


鮎の塩焼きやイカ焼き、ビール、地酒が振る舞われて
神楽や日本舞踊を見ながらおしゃべりをした。
「サッカー場前のまさおさんっつったら、おめ、知らね人いねべ?」
とかいって歌ったり踊ったりしてくれるようなおもしろい人ばっかりで
いかにも温かい地元のお祭りですごくよかった。


ボランティアの5日目は大槌町へ炊き出しへ行った。
小学校で寝泊まりしている約30人の被災者の方の夕食を作った。


4人グループで、1人バリバリの主婦がいたので
他の3人はその人の指示に従った。
献立は、豚肉と野菜の炒めもの、ポテトサラダ、
わかめときゅうりの酢のもの、舞茸の味噌汁、ごはんだった。


被災者の方は疲れてるかんじがした。
共同生活でのストレスや将来への不安で大変な毎日なんだろうと思った。
話していて、最後に
「もう、どうやって恩返ししていいのか…」
と言っていた。
なんといっていいかわからないけど、胸が詰まった。


帰り道、美しい夕日の中で同じグループの63才のおじさんが人生を語ってくれた。
一人の女の子に3回ふられたことや生死の境をさまよった交通事故の話、
東大抗争からエリート街道を降りて中学の国語の教師になったこと、
今の奥さんとの出会いなど、いろいろ話してくれて感銘を受けた。
「お前さんは何かわかんなきゃすぐわからないって聞いて、
自分の物差しでわかる、わからないって考えてるだろう。
わかるってことはそういうことじゃないのに」という言葉が印象的だった。
感動した、というと「そんな簡単に感動するもんじゃない」と言われた。


夜はアメリカ人2人とフランス人1人を招待してお好み焼きパーティーをした。
遠くから日本のために来てくれているのはうれしい。
日本語が全然できないし知り合いもいないのに一人で飛び込んでくる勇気はすごい。


先日受験した仏検2級の1次試験は基準点61点で84点で通った。よかった。
語学を勉強するほど、大切なことは笑顔だったり、
言葉が違ってても伝えようとすることだったり、
語学以外のところにあると感じる。


なんとなく殻から少し抜け出しつつある気がする。


<6日目 釜石市箱崎町>
今日は初めて釜石へ。
まだ全壊した家がそのままになっているところが多く目につく。


全部で30人で、側溝の蓋を閉じる力仕事グループ、
側溝の泥出し、切り出した竹を運んで川の流れを戻すグループに別れた。
メンバーの中にはアメリカ人が2人、日系フランス人が1人、
日系アメリカ人が1人いて、隊長はモンゴル人だった。
日本語を教えたり、英語やフランス語を教えてもらったりして楽しかった。


私は始め竹を運んでいたけど、隊長さんが
「泥出しやりたいならやってみるか?」と声をかけてくれて
側溝の泥出しをした。


側溝には海の砂からアスファルト、ガードレール、何かのモーター、
缶やビンなどいろいろなものが埋まっている。生きた亀も出てきた。


少しずつスコップで泥を掻き出していく。
だんだんコツがわかって後ろに砂が飛ぶように
片手でスコップの柄の近くを持って、
もう片方の手で柄を低い位置で押すようにすると
割合楽に泥が出せるようだった。


進むにつれて足場が低くなるからどんどん高く泥を上げなくてはならなくなり、
腰が悲鳴をあげて汗がボタボタ落ちた。
目に見えて泥が減っていくのはうれしかった。


もしかしたら遺体や骨などが出てくるかもしれないし
自分の足の下に埋まっているかもしれないと思うと
怖いとかそういうのではなく、出してあげたいと思った。


実際、その日に近くで海の中から鉄骨などを引き上げていた場所で
遺体が見つかり、黙祷をしてきた。


<最終日 釜石市箱崎町>
朝起きると腰の右の方が痛い。
やば、と思ったけどよく寝たせいか体は軽い。
大丈夫だと思い、また今日も箱崎へ。
昨日の続きで泥出しをした。


後から作業をする重機が入りやすいように、
側溝から出した泥をならしたり、少し場所を移す。
アメリカ人の青年が1人で3人分くらいの働きをしていたから
それに合わせて泥掻きをしてたらバテそうになった。
最後に犬か何かの小さな骨が出てきた。


たった7日間とはいえ、いろいろな経験をさせてもらえた。
初めて会う人にはまだ少し人見知りしてしまうけど、
いっしょに働くと昼過ぎくらいには打ち解けられるようになった。
あと酔っぱらったおじさんとの接し方が大分うまくなった気がする。


毎日5時半か6時起きだし、
お風呂に入れなくてコインシャワーとかだし、
すごく疲れて歩くのも嫌ですぐに寝てしまいたくても
ごはん当番とか洗濯しなくちゃいけなかったりして
大変なこともあったけど、


被災地や被災者に直接触れていろいろ考えさせられたり、
力を合わせるってすごいことだと感じたり、
その日知り合った人たちといろんな話をしたり、
地域の人たちの温かさに触れたり
すごくいい経験になった。


遠野の野菜は大きくておいしいし、
疲れたときのビールは最高だし、地酒もおいしいし、
協力隊の仲間で笑いながら楽しく過ごせた。
迷ったけどボランティアに来てよかった。本当によかった。


また月末までに来れたら来たい。