生贄

Koroという村に行った。山の上にある村だった。


11世紀頃にその地域では争いがあって、平地に住んでいた人たちが敵が来たらすぐ分かるように山を開拓して移住したらしい。


生活条件の厳しいところで、水はもちろん出ないからふもとから運ばないといけない。
山道は大きな岩や石だらけで、完全にマンパワーだけで少しずつ頭に載せて運ぶ。
家を建てるときなんかは相当大変らしい。小学校もふもとにあった。


村は3つに分かれていて、農民と鍛冶屋、商売人と住むところがはっきり分かれていた。農民の住む区域には今は誰も住まなくなって、廃墟になっていて寂しい感じがした。
アニミズムを信仰していて、日本の神道のように多神教で山や木、動物、いろいろなところに神をもっている。


「双子の神」の祭壇があった。
昔は双子が生まれると不吉だと思われていたから、双子を捨てたり殺したりしていたが、今でも鶏を生贄にする慣習が残っている。
祭壇の陶器の口から鶏の羽が少しだけ出て風に揺れていた。


フライドチキンを食べるとき、鶏肉の煮込み料理を食べるとき、私は何羽分の鶏肉を食べてるか知らないし、ただおいしいかおいしくないかしか考えていない。
そのために殺される鶏よりも、生贄にされた鶏の方が一羽の命の意味が重たい気がした。
「生贄にする」と聞くと「残酷」、「かわいそう」と思うけれど、むしろ逆で、フライドチキンになる鶏に対しての人間の態度の方が「残酷」で鶏が「かわいそう」なのかもしれない。生贄にすることで命への畏敬の念を抱かせるものなのだなと、祭壇を見て思った。


いつもの「いただきます」に心をこめようと思った。