まなざし

ブルキナファソにはまだカーストが残っていることを知った。
鍛冶屋や革職人、靴の修理屋なんかは代々その職業にしか就けない。


Koroの村でも鍛冶屋は固まって住んでいて、鍛冶屋の人は陶器を作る女性としか結婚できない。


生まれたときから一生が決まっているってどうなのだろう。
アマルティア・センは「選択肢が与えられていること」を豊かさか何かの定義に挙げていたけど、もしある人が信念をもって与えられた人生のレールを辿って、それを守ることに一生を捧げているのだとしたら、すごく強い生き方かもしれない。


星野道夫が『旅をする木』でアメリカの「アーミッシュ」という人々について書いていた。宗教改革の頃、もう一度聖書の中の質素な信仰生活に戻ってゆこうとした人々を始まりとして、今でも電気を使わず、馬車に乗り、農業を営み、現代文明とは無縁な生活をしているらしい。星野道夫はアーミッシュの人とすれ違った時に「この人間は私たちとは全く違うことを考えているという直感」がしたと述べている。


Koroの人々は観光客に慣れており、にこやかにあいさつをしてくる人もいたが、目が合っても無表情にこちらを見て、目をそらす人たちもいた。廃墟と思っていた家から人影が見え、驚かされた。そういえば音の少ない、静かな村だった。


普段は大抵、日本人が行くとどこでも「シノワ―」とか「ジャポネ―」とか、「お金をくれ」とか何かしら声をかけてくることが多い。子どもたちは握手を求めてくるし、大人は何か売ろうとしてくる。声はかけられなくても視線を感じることが多い。


しかしKoroの村人はどこか少し違っていて、無表情のその眼は、「我々は見せものではない」と訴えかけているようにも思えたし、視線を向けてはいるがただ異質なものが通り過ぎていくのを無関心に待っているようにも思えた。


都会の喧騒の中で失っていくものを持ち続けている人々の眼だった。