洗礼は洗脳か、親のエゴか、自然な価値観の形成か

洗礼の儀式の短い間でさえじっと話を聞いてられないような小さな子どもを、あやして黙らせて洗礼を受けさせる。


そこにはその子の意志はなく、その子にとって宗教は「選択」ではなく、気付いたら自分の「生活の一部」を占めるものとなる。


それでは洗礼は「洗脳」じゃないのか。


しかし、子どもは生まれた家のルールに従い、考えや嗜好が決まり、その子の価値観が形成される。


親とは自分の子どもを「洗脳」する権利をもった人のことなのだ。